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 開祖の教義とは


 【開祖の教義とは】

 文明14年(1482)小瀬與左衛門尉長宗(後・開祖瀬戸口備前守政基)は、香取神道流開祖の飯笹長威斎を師事した16歳の日より剣に生きると決めていた。

 鹿嶋神殿に於いて開眼し、自らの流儀を天眞正自顕流と名付け、応仁の乱で人間同士が争う悲惨さを体験した。

 命の儚さは、万物共生を願った師の教えに反して、過酷を極め無常であったと遠国記に記述してある。

 南国の果て薩摩に渡った長宗は、そこを生涯の地と決めて姓名を瀬戸口備前守政基と改めた。

 備前守の教えは、大きく分けて二つある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



  

 
 
ひとつは、人生に於ける心の在り方と、多くの死の体験から得た仏の道である。

 

 ふたつは、剣の操法に於ける自在の極致へ如何にして到達するかの道である。
 

 人は生を得た日から死という人生の最終地へ進んでいる事を忘れがちであるが、限られた人生であるからこそ一日を如何に修行して、如何に過ごすか、を心掛けなければならないと教えているのである。

 そして、心の和を求め修行する所に、始めて学ぶ意義があると説き、剣の修行は【動】、心の修行は【静】であり、体も心も我が身体を確実に制動する手段を自源流の修行目的としている。

 そして、「一の太刀を以て二の太刀を疑わず」に集約される様に、一道を以って万道に通じ、満願成就の誓いを立てる事を天眞正自源流兵法の根本儀としたのである。

 故に、その流派名は、本朝武勇の祖神・香取鹿島の御神徳を現す「天眞正」を冠して、自らを顕す道と為し、天眞正自顕流と称したのである

        

 

 永正五年(一五〇八) 備前守は齢七十七歳になり、【顕】の一文字を改め【源】とする事によって流派創生を確固たるものにした。

          天 眞 正 自

              ↓

               天 眞 正 自


 【源】は万物の根源を顕し、無から有を生じ、再び無に還る全ての輪廻に従う形あるものを意味しているという。

  備前守が命名したのは、流派名だけでなく、自源流に於ける全ての形に対して、明神が姿を現し「神変童子」となって神示を顕す時、其の神示の形を「尊形」という事から、自源流の御法形を全て「尊形(そんぎょう)」と称したと伝えられている。

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